夜間飛行

2018年01月

昨日、看護師免許を取得するには幾らかかるのかということを記事にしました。
べらぼうに高いですね。


というわけで今日は、看護師を離職し、大学院進学をする際に金銭的なコストを抑える方法をお伝えしようと思います。
なお、大学院進学の際に利用できる制度として病院給付型の奨学金を用意している病院もありますが、あれは「お金は出してあげるけど、卒後~年間はうちの病院で働いてね」とかなり制約の強いものですので、私はあまりお勧めできません。

では、以下で二つの方法をご紹介します。



①国立大学へ入学し、学費、入学金免除制度を使用する



私立、公立では分かりませんが、国立大学では入学金、学費の免除制度が充実しています。
具体的な計算式は各大学のホームページに掲載されていますので、そちらを参照してください。
結構細かいですが、要は


【”家族の総収入-諸々の控除額”が大学が定める免除対象のラインより高いか、安いか】

というだけです。
そしてこの制度、色々とツボを押さえることで”総収入”を低くコントロールすることができます。


その最たるものが、”独立生計扱い”です。
これは、「私は親の扶養を離れて、個人で生計を立てていますよ」という立場で、これにより”家族の総収入”が”進学者のみの収入”で計算されるようになります。さらに、ここで大切なのは、こちらの収入は”前年度のもの”でなく、”進学年度のもの”が適用になるということ。つまり、退職して大学院に進学される方の場合は、アルバイトをしない限りは”ゼロ円”になります。
ですので、入学金・学費免除がよほど書類で下手を打たない限りはまず通過されます。


ただ、”独立生計扱い”のデメリットとして、親の扶養に入れないので自身で国保に加入する必要があります。
私の場合は国保年額24万円程度であり、国立大学の初年次経費は入学金28万円+学費54万円=82万円ですので、国保を払っても全額免除を受けた方が圧倒的にお得でした。


国保の月額は前年の収入によって決まりますので、どちらが得が皆さん計算されると良いかと思います。
ちなみに、この”独立生計扱い”、かなり手続きが面倒です。大学の教務課の方でも良く分かっていない方もいらっしゃるくらいなので、申請の際には何度も教務課と電話でやり取りをして、「確実に独立生計扱いになれる」という状況を作り出してから申請に臨むのが良いと思われます。
うまく貯金額やアルバイト額をコントロールして、「親の扶養に入らないでも生活していけるけど、学費を払うだけの余裕はないんですよ」という状況を”演出”する必要があります。



②日本学生支援機構の奨学金返還免除規定を使用する


返済義務があるため、”借金”と揶揄される日本学生支援機構の奨学金ですが、実は大学院においては返還免除規定が存在します。
内容は「特に優れた業績をあげたものは、奨学金の返済を全額、または半額免除する」というものです。

大学院では最大毎月8万8千円が貸与されますので、返還免除に該当すれば2年間で最大212万2,000円、最低105万6,000円が実質は”給付”されるということになります。


「私の大学は偏差値が低いから、免除なんて無理だよ」と思われるかもしれませんが、ここがこの制度のミソです。
この制度における”成績優秀者”の定義とは、全体のトップ3割ではなく、各大学のトップ3割になります。
つまり、偏差値70の大学のトップ3割でも、偏差値40の大学のトップ3割でも、同様に返還免除を受けることができるということです。


3割という数字はかなり大きく、平成28年においては大学院第一種奨学金を利用した26,987人のうち、2,699人が全額免除を、さらに5,397人が半額免除を受けており、その人数は合計8,096人の登ります。
こうして数字で見ると、「あれ、けっこういけるんじゃないか?」という気持ちになりませんでしょうか?


”成績優秀者”の細かな選考方法は私には分かりませんが、実際に免除になった東大の先輩を見ていると、授業の成績、論文数、論文の質などが評価されているようです。



以上二つが、私が提案できる方法です。
私立の看護系大学、大学院は実習費、施設費なども支払う必要があるためどうしても学費が高額になってしまっているようですが、どうかそこで進学を諦めず、色々な技を検討し、多くの看護師が大学院へ進学できるようになれば良いなと思っております。

本日、Twitterで看護系大学院の学費について言及したのですが、そもそも看護学校を卒業するまでにかかる費用(入学金+学費)というものは幾らなのかと疑問に思ったので調べてみた次第です。


①国立大学

入学金:28万2,000円
学費(年額):53万5,800円
合計:242万5,200円

国立大学の場合は授業料、学費全額/半額免除が比較的おりやすいので、実際はこの値段よりは下がるかと思います。
にしても、国立大学でこの値段と言うのは高すぎる気がしますが。



②私立大学
多数存在しますので、とりあえず某偏差値ランキングサイトの上位から抜粋しました。


・慶応義塾大学看護医療学部
入学金:20万円
学費(年額):160万5,850円
合計:662万3,100円


・上智大学
入学金:20万円
学費(年額):158万円1,500円
合計:654万円3,450円


・北里大学

入学金:40万円
学費(年額):170万円
合計:720万円


・聖路加国際大学
入学金:20万円
学費(年額):155万円
合計:640万円


・日本赤十字看護大学
入学金:40万円
学費(年額):157万円
合計:668万円


・帝京大学医療技術学部看護学科
入学金:25万円
学費(年額):174万円7,000円
合計:723万8,000円


国立大学より400万円~450万円ほど高くなっているでしょうか。
にしても高いです。
非難を覚悟で言いますが、国立大学なら状況によっては入学金、学費免除がおりて実質0円になる可能性も高いので、これだけの費用を出してまで私立の看護大学に行くメリットは私には見出せません。



③看護系専門学校
こちらも多数存在しますので、設立母体を分けて幾つか抜粋します。


・東京都広尾看護専門学校(都立)
入学金:1万1,300円
学費(年額):26万5,700円
合計:80万8,400円


・長野赤十字看護専門学校(日赤)
入学金:10万円
学費(年額):55万円
合計:175万円


・慈恵看護専門学校(学校法人)
入学金:10万円
学費(年額):36万円
合計:118万円



④海外トップ大学
参考までに、各国のトップ大学看護学部の学費も調べてみました。


・University of Pennsylvania(アメリカ)
Tuition and Fees:$53,534
Total:$214,136(約2366万円)


・Johns Hopkins University(アメリカ)
Tuition and Fees:$57,846
Total:$231,384(約2555万円)


・University of Tronto(カナダ)
Tuition and Fees:$10,753
Total:$43,012(約475万円)


・Karolinska Institutet Global Health(スウェーデン)

Tuition and Fees:SEK180,000
Total:SEK720,000(約990万円)
*上記は外国籍生徒のものであり、自国籍生徒は無料である。


・King`s College London(イギリス)
Tuition and Fees:£9,250
Total:£37,000(約570万円)
*上記は英国籍生徒のものであり、非EU外国籍生徒は合計約1726万円である。


・National University of Singapore(シンガポール)
Tuition and Fees:$8,950
Total:$35,800(約300万円)
*上記はシンガポール国籍生徒のものであり、外国籍生徒は合計約641万円である。


・National Taiwan University(台湾)
Tuition and Fees:$4140
Total:$16560(約183万円)


・SEOUL National University(韓国)
Tuition and Fees:2,996,000ウォン
Total:11,984,000ウォン(約123万円)





看護理論とは看護実践の場における物事の”見方”を提供するものであり、看護理論によって「看護実践を記述し、説明し、予測する(筒井真優美, 看護理論家の業績と理論評価)」ことが可能になります。


看護理論を通して、「人間とは何か」、「看護とは何か」、「健康とは何か」ということを捉えます。
例えば”健康”の概念が「延命」から「単純に病気がなかったり、病弱じゃないってことじゃなくて、精神的、社会的にも満たされていることだよ」と変わったことにより、医療実践は大きく変わったように、「人間とは何か」、「看護とは何か」という定義が変われば、その中で実践される看護も変わります。


つまり、看護理論は看護の骨格を創るものだと私は思っております。
そして、大切なことは看護理論は一つではないということ。
それぞれの看護理論は、理論家が立脚する思想や、臨床経験、そして時代の要請に応じて、固定の観念というものを有しています。
それはある文脈に沿って構築されるものなので、その理論を用いるのが適切な状況もあれば、まったく見当違いの状況というものもあるはずです。

ですので、看護理論を用いる際には、理論が構築された背景を踏まえ、その理論の長所、短所を掴んでおくことで、状況に応じて使う理論をスイッチしていくということが大切だと私は思っています。



そこで今回、それぞれの看護理論が成立した背景を知るために、看護理論家の臨床でのフィールド、学歴と専門、影響を受けた人物などの観点から表を作成しました。
なお、底本として医学書院様の「看護理論家の業績と理論評価」を使用させて頂いています。

気付いたことを簡単に書きます。


①看護理論家は臨床経験の多寡に縛られない、

臨床経験は0年~十数年である。
研究者の仕事は良い研究をすることであって、良い看護をすることではない。
大切なことは臨床と対話する姿勢を持ち続けることと、科学的思考によって臨床からツボを抽出することなのでしょう。


②看護学以外の様々な学問分野のバックグラウンドを持っている

例えば、教育学、心理学、社会学など。
ここら辺はまだ看護学とも距離が近いかもしれませんが、ロジャースの理学、レイニンガ―の生物学などは面白いです。
もっと面白いことに、それぞれの看護理論を垣間見ると、自身の学問的バックグラウンドの影響が色濃く出ていることが汲み取れ、「看護とはまったく関係なさそうな学問領域だけど、こうして看護学に持ち込まれているのか」ということが良く分かります。


③看護学以外の様々な先人から影響を受けている

理論家は先行する他の学問分野を看護学に組み込み、看護理論を開発しています。
例えば、実存主義、現象学、一般システム理論、カオス理論、ホメオダイナミクス、全体論、有機的世界観など。
これは、看護学の教育においても、単なる看護技術教育のみではなく、これらの概念を理解するための基礎科学分野の教育が重要であるということを意味すると私は考えいます。







図2







以前、ある病院の教育担当の看護部長とお話していた時、

『研修医の子たちはさ、やっぱり勉強するから。看護師も見習わないと。』

と仰っていました。
「研修医を見習って看護師も頑張らなきゃ」というほどの意味合いだったと思うのですが、私は聞きながら「ん?」と感じたのを覚えています。



勉強するかどうかは、ただ単に「努力するなんて偉いわね」ということではありません。
ある個人が勉強することの背景には、例えば勉強する時間がある、お金がある、勉強することが自身の旨味になることが分かっている、勉強の成果を発揮するだけの裁量権と責任を与えてもらっているなどの背景因子があります。

そして、新人看護師に比べて初期研修医はより濃厚にこれらの因子に接している。
つまり、「初期研修医は良く勉強して、看護師はそうではない」と副部長が主張したことの背景には、個人の責任には帰しきれない格差が存在しているといういことです。



看護師は一度就職すると、基本的には一つの病棟に2~3年間は滞在することになります。
初年次の配属も必ずしも希望通りにはなるとは限らず、またその後の異動も希望は出せても、それが通るかどうかは看護部の方針とその時の状況次第です。
看護師として病院で働いているうちは、個人的にアプローチしない限りは、学会や研修などの情報はあまり入ってきません。
また、軍隊式看護教育がまだまだ幅を利かせている臨床において、新人看護師が現場で与えられる裁量権は小さい。
看護師のキャリアもどんどん開発されてきてはいますが、あくまでも看護の中だけの話であり、例えば医師がWHOは厚生労働省、ヘルスケア系のシンクタンク、記者になったりするようには看護師のキャリアは積みにくいかもしれません。



これに対し、初期研修医は独立して初年度から患者一人の治療プランを立て、それを上級医にコンサルしてフィードバックを貰い、さらにそれを治療に還していくというプロセスを繰り返すことが許されます。
日常的な病院生活の中でも学外の研修会、学会の情報も盛んに入ってくるため、そこで人脈を形成すると共に、多様なキャリアプランに触れ、より具体的に努力の意義を認識できる機会もあるでしょう。
初期研修医のローテーション制度を通して、多様な医療現場に触れることで知識、経験の幅を増やし、自身を相対化することを通して、自らのキャリアを探っていく機会にもなる。

同期の研修医が研修の一環として農村部の診療所や、石巻の診療所、訪問診療、ER、総合診療と自由に学び方をカスタマイズし、さらに海外研修にも参加し、そうしてチャンスを与えてもらっている一方で、看護師として病棟で働き詰めになることに悔しさを覚えていました。

「これまでの努力量や、能力としては負けてないはずなのに、どうして資格の違いでこんなに与えられるチャンスに差があるのだろう」、と。



私自身がこのような環境で看護師として働くなか、このままの看護教育制度では看護界が学力と向上心を兼ね備えた”高学歴層”を獲得するのは難しいだろうなと思うに至りました。

大学の同期のキャリアだけ見ていても、企業に入れば初年次からプロジェクトを回すチャンスを、官僚になれば政策立案と官費での留学のチャンスを、研究者になれば奨学金と海外大学への推薦を、と皆それぞれの能力を発揮できるフィールドを用意されています。

こういった努力に対して”報い”のある職があるなかで、あえて”高学歴層”がその道を蹴り、看護を選択するのは現実的ではないのではないかと私は自身の経験から感じています。

こんなことを言っていると、「エリート主義か」と嫌な気持ちになる方もいるかもしれないのですが、私は勿論、”学力がある=あらゆる面において優れている”などとは毛頭思っておりません。
ただ、学力の高さは、ある一面における能力の高さを示していて、それは数字や論理を扱ったり、物事を俯瞰して捉えたり、マネジメントしたりと、そういった形で表現される類のものだと思っています。
そして、今の日本の看護界の中ではそのような能力をもった人材が不足しているということは、それほど違和感なく共感して頂ける問題意識なのではないでしょうか。



ということで、私は新人看護師のやる気を拾い上げ、すくすく能力を伸ばす土台を創るとともに、”高学歴層”を看護界に誘致するためにも、新人看護師への教育体制がより充実したものになれば良いなと思っております。

また、「看護師は勉強しない」、「看護学生はあまい」と時として看護師内からも非難するような声が聞こえてきますが、この原因をすべて”個人の責任”に帰するのではなく、その背景にあるかもしれない構造上の格差にも眼を向け、そこへ改革のメスを入れていくようになればいいなと思います。

看護学は学問です。

学問であるということは、後天的な学習によって習得が可能であるということです。

そして、看護実践の中核はケアリング(理論にもよりますが)であり、私の師匠の言葉で表現するならば「他者の憂いを自らの憂いとして感じること」だと私は思っております。



これが前提です。
この前提に基づき、私の考える看護学の可能性は

『後天的教育によって他者への愛を獲得可能にさせる』

ということで、そしてこれが可能になれば、看護学は

『世にはびこる排除と闘う力になる』

と私は思っています。



大ベテランの看護師が、「やっぱり看護は育ちよね」と仰っていましたが、私はこの意見にはまったくもって反対です。
その方は、”育ち”という言葉を、「よい看護実践をするためには、親や教員から愛されてきた経験が必要」という意味で使っていたと思うのですが、では、親から愛されなかった児は良い看護をすることができないのか?

例えば、虐待された児、事故で両親をなくした児、そういった児は「人に優しくする」ということができないのでしょうか?

そんなことは絶対にあってはならないはずです。



もし看護学によって他者を愛するということが後天的に獲得可能になれば、こうした過去の負の刻印を乗り越えることができます。
また、差別やジェノサイド、戦争の渦中にあり、他者を攻撃することが当たり前に横行している世界にあっても、他者への愛が学問として強化可能であれば、そのような排除に向かって立つ力となるはずです。

東大の山本則子教授がパトリシア・ベナーの理論をクリティークした際に、「明示化されていない前提としては”人間は学習の環境を与えられ、適切に教育をされれば、道徳的なアートである看護実践を習得し、実践することができる”(看護理論家の業績と理論評価, 422P)」と書いていましたが、これはまさに私の考えと合致するところでした。



では、いかにして看護学によって他者への愛が獲得可能になるのか。

ほぼ全ての看護理論家のクリティークに目を通して感じたのは、看護理論とはあくまでも看護の骨組みに過ぎず、そこに他者への愛が内包されているわけではないということです。
設計図に従って自動車を組み立てていても、そこにエンジンが組み込まれていなければ自動車は走りません。

いったい何によって看護実践の中での”他者への愛”が伝達されていくのでしょう。
一見すると先の主張と矛盾して聞こえるかもしれませんが、私はこれは”看護教員との人間的な関わりを通して”以外にはないと思っております。
教育の中で、教員が学生を愛し、その芽を伸ばそうと努めることにより、学生の中に”他者への愛”が芽吹いていくと私は考えます。

ですので、学生を攻撃し、支配しようとする看護教員、指導者さんというのは言語道断です。
時おり、看護の世界では教育と支配を取り違えている教員、指導者さんに出会うことがあります。
教員の意見への反論はおろか、質問すら許さないような方々です。

学生にとっては教員、指導者さんというのは”看護の全て”であると錯覚されがちですから、そのような教員、指導者さんにあたった学生は酷く苦しい思いをするかもしれません。
私が声を大にして言いたいのは、「そういった教員、指導者は大した人間ではないから、言われたことで苦しまない方が良い」ということです。
こちらの質問や反論を拒絶するのは、あなたが間違っているからではなく、彼らに対話をするだけの知性と思慮が欠けているからです。

どうぞ不必要に苦しまないでください。



看護学がナイチンゲールによって萌芽したのがわずか150年前。
その骨格は未だに完成せず、多くの臨床家、研究者が看護を前に進めようと闘っています。
看護は未熟で、時に「旨味がない」と思われるかもしれません。
しかし、それは反すと「看護の可能性の大きさ」をそのまま現わしており、私には看護学は地に埋もれた宝石のように思えます。

全ての学生、看護師が、看護学が未熟であるが故の理不尽に潰されてしまうことなく、看護の可能性を信じて働けるような時代が来ればいいなと私は思っています。

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