夜間飛行

2017年08月

今回は八千穂村での健康管理がどのようにして始まったかを書いていく。

前回のブログでも書いたが、八千穂村の全村健康管理は突如現れた農村医療のヒーロー若月によって颯爽と進められたというようなものではなく、開始に至る背景には村内の人的資源の成長、若月と村のリーダーの関係構築、地元医師会の説得などの困難があった。

このうち、村内の人的成長に関しては前回のブログで、佐久病院が介入する以前から村の青年部・婦人会を中心に、栄養グループや環境衛生指導員が活躍していたということがあった。
松田甚次郎は『土に叫ぶ』の中で、「村の天才、これはどこにでも居る。歌づくりの上手な人、歌を唄うことの上手な人、踊りの上手な人、雄弁家の青年、滑稽のうまい人など、数限りもなく居るのだ」と書いているが、このように当時の村は人的資源の宝庫であったのだろう。現代の村=過疎というイメージからは大きく離れた、華やかな印象を受ける。
全村健康管理の導入後も彼らはその主要な推進者として活躍することになるのだが、彼らが病院と村との間に立ったからこそ、病院は村に受け入れてもらえ、そして村の深いところにあるディマンズを掴み取っていくことができたのではないだろうか。


次に、全村健康管理を始めるにあたり、どのようにして病院と村とが信頼関係を構築していったのかを述べる。レイテ島に医療研修に行ったとき、農村に滞在して医療活動を続ける現地の医学生から「リーダーと話すことが大切だ。リーダーに信頼されなかったら、村人の誰からも信頼してもらえない」と教えを受けた。村の政治的指導者である村長、宗教的指導者、青年団や婦人会の代表者など、その村内で発言力を持つ人間を感度良く掴み、彼らと信頼関係を構築していくことが大切である。私は、地域医療を展開するうえで、このステージが最も難しく、繊細なバランス感覚と類まれな政治力を要されるステージであると感じている。農村は閉鎖社会であり、外から来るよそ者には厳しい。私が病院に就職する前、田舎道を散歩していて迷ってしまったので、近くで農作業をしていたおじさんに道を尋ねたら、キッとこちらを睨んで「あんたどこの誰?」と言われ、一瞬たじろいでしまった覚えがある。すぐに「~病院の研修で来たものです」とこちらの立場を明らかにすると、おじさんの顔は瞬時に笑顔になり、快く道を教えてくれたが。あの時のおじさんの険しい顔こそが農村がよそ者に対して抱く不信感そのものだったのではないかと私は思っている。若月が農村医療と佐久病院の発展について記した『村で病気とたたかう』の中では、飯島先生の『組合の歴史』から、以下のような引用をしている。「反動がやがて現れた。佐久病院従組の民主的な動きに憎しみをいだく保守的な村の勢力は、執拗な妨害を加えはじめたのである。それは脅迫文書とビラの配布。その中には『汝の一族に鉄槌下るべし』、また『命がおしくば直ちに臼田を撤去すべし』などというものがあった。暴力行為もあった」。このように、当時の佐久病院は全ての住民から諸手を挙げて歓迎されるような状態では決してなかったのである。若月がわずかでも身の振り方を誤っていれば、佐久病院の言われもない悪評は途端に広がり、どの町、村も手を取ろうとはしなかったであろう。では、若月はどのようにして八千穂村のリーダーであった井出村長との間に信頼関係を構築していったのであろうか。八千穂村には(当時は畑八村)村営診療所があったが、若月はこの診療所へと数年間、毎週通っていたのである。このことが、佐久病院と八千穂村の関係を徐々に構築していった。加えて、酒好きの若月と井出村長が頻回に酒を飲みかわしていたこと、佐久病院の出張診療班が診療や演劇の上演を繰り返し、これに村人の大半が出向いていたこと、さらにその演劇の後で病院スタッフと村民で宴会が行われていたことが病院と村の信頼関係を作り上げることに繋がっていった。佐久病院は「サケ(酒)病院」と呼ばれるほどの宴会好きな病院で、何かにつけて集まって酒を飲みかわす。酒の場が信頼関係を作る場になっているからである。


そうして徐々に病院と村との間に信頼関係が構築されていったが、大きなプロジェクトを展開するとなると、必ず反対者も出てくるものであろう。八千穂村全村健康管理の場合は、地元の医師会であった。佐久病院が健康管理をすれば、村内の患者は全て佐久病院に取られてしまい、地元の開業医の患者がいなくなってしまうのではないかと懸念したのである。この反対意見を抑えるのに一躍買ったのが地元の開業医である出浦医師である。当初は健康管理に反対していた出浦医師であったが、一度賛成してくれると、地元医師会を説き伏せ、反対意見を抑えてくれたようだ。新しいことを始める際には、反対意見がどこの筋から出てくるであろうか推測しておき、予めそれを抑えてくれるような人物を味方につけておくことが大切なのだろう。


さて、これらの背景が全村健康管理を推進する動力源となっていくが、その始まりには一つのきっかけとなる事件があった。それは、昭和32年の国民健康保険の改正である。この改正により、これまで後払いでよかった医療費の自己負担分が、窓口で徴収されることになってしまったのである。これでは村民は必要な時に医者にかかることはできない。そうすれば、村民が病気を我慢するようになり、彼らの健康状態は悪化してしまう。この事態を懸念し、病人を作らないような健康活動が大切だということで若月と井出村長が意気投合し、全村健康管理が始まることになったのである。


以上をまとめると、全村健康管理が成立する背景には、①村内に豊富な人的資源があった、②村と病院の間に信頼関係が構築されていた、③反対派の意見を抑え込めた、④全村健康管理の必要性を強く意識されられるようなきっかけがあった、などの要因があったことがわかる。
こうして十全に土台を作って始められた健康管理だったからこそ、途中で立ち消えることなく、50年という長きにわたり続けられてきたのであろう。

佐久病院が50年以上に渡り実践してきた八千穂村の全村健康管理についてまとめる。
主として「健康な地域づくりに向けて」を資料としている。

第1回として、佐久病院が介入する以前(全村健康管理は1959年に開始された)の八千穂村の状況について考察する。



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厚生労働省 平成23年人口動態統計より


1950年代の日本は疾病構造で言えば感染症の時代であり、八千穂村でも結核、赤痢、回虫などの感染症が問題となっていた。若月氏は回虫による被害を「あの頃はみんなおなかの中に虫がいて、それを「虫っ腹」というんです。それと間違えて、盲腸を「手おくれ」にし、汎発性化膿性腹膜炎を起こして、おなかをこんなに腫らして死んでいくんです。これを「腸満」と呼んでいました。苦しくて寝ていられないから、障子の桟にぶらさがりながら死んでいく。私が腸満の手術をしておなかを切開すると、膿がダーッと出てくるんです。そして膿の中に回虫が泳いでいるんです。(健康な地域づくりに向けて 12P)」と講演で語っている。

これらの疾病は村の貧しく、不衛生な暮らしが原因であった。
このような問題に対して、八千穂村は全村健康管理が始まるまで手をこまねいていたわけではなく、村の中に栄養グループや環境衛生指導員を設置し、改善にあたっていた。この活動が後の全村健康管理に大いに活かされることになる。

また、感染症に加えて農夫症が農民を苦しめた。これは、過酷な農業、乏しい栄養、寒冷地での暮らし、閉鎖的な農村環境のストレスなどの農村特有の環境を原因とする症候群で、腰痛、冷え、夜間頻尿、肩こり、手足の痺れなどからなっている。

八千穂村農家の主な収入源は米と養蚕であり、現金が手に入るのは盆暮れの年2回だけだあった。さらに、国民皆保険が達成される1961年以前は医者にかかるためのお金は当時の農民にとっては途方もない学であったことが推察される。「芸者をあげる」ことと同じく、医者を家に呼ぶことは「医者をあげる」と言われ、贅沢なことだと考えられていた。
このような状態であったから、病気があっても我慢する「がまん型」疾病となり、医者に診せた時には手遅れということが少なからずあったという。


これが、全村健康管理が開始される以前の八千穂村の医療の状況である。
この窮乏に対し、若月が全村健康管理を始めることになるが、ここで注意せねばならないのが、全村健康管理は「若月というヒーローが村に登場し、あっという間に村の保健衛生を改善した」ような類のものではないということである。若月登場以前にも、村では栄養グループや環境衛生指導員が活躍していた。さらに、村長の力も強かったこと、森林資源が豊富にあり、そのため村の財政が潤っていたという背景があった。
なぜ全村健康管理が佐久病院のお膝元である臼田町ではなく、少し離れた八千穂村で始められたのか。そこには、八千穂村に取り組むべき保健衛生の課題が散在していたということだけでなく、村内に活用できる資源が既に存在しており、より介入しやすかったからという理由もあるのではないかと考えられる。








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