夜間飛行

2017年04月

わたしが日夜仕事として携わっている福祉。
この福祉とは何であろうか。
わたしはどのような意識をもって病者と、障害者と関わっているのであろうか。


手近にあるウィキペディアの引用で恐縮だが、そこには以下のように書かれていた。

福祉(ふくし、英 Welfare)とは、「しあわせ」や「ゆたかさ」を意味する言葉であり、すべての市民に最低限の幸福と社会的援助を提供するという理念を指す。

”提供”という言葉を字義どおりに解釈するのならば、持つ者が持たざる者に施すということになるだろうか。

しかし、私はこの捉え方というものはいささか危険だと思っている。
なぜなら、持つ者が持たざる者に与える時、それが強者の理屈の押し付けになるのではないかと言う恐れがあるからだ。それは結局、善意の皮をかぶり、弱者を抑圧することに他ならない。青い芝の会の行動綱領には、「我らは、自らが脳性マヒ者であることを自覚する」とあるが、これを健全者の文脈に照らし合わせるのであれば、健全者もまた、「我らは、自らが健全者であることを自覚する」ということになろう。健全者として生きてきた私には、無意識のうちに健全者に都合の良いように物事を捉えるという癖が染みついているはずである。私がどれほど中立をうたっても、そして他者に寄り添おうとしても、私が健全者の理屈から飛び出すということはできないはずである。CP者である横塚が著した『母よ殺すな!』から抜粋する。

「人間とはエゴイスティックなもの、罪深いものだと思います。この自分自身のエゴを罪と認めることによって、次に「では自分自身として何をなすべきか」ということが出てくる筈です。お互いの連帯感というものはそこから出てくるのではないでしょうか。まして、我々障害者とそうでない人達との交わりとは?障害者福祉とは?ひいては人間社会のあり方とは?先ず自分が罪人であると認めるところから出発しなければならないと思います。その根底に自分の罪悪性を省みることがない限り、そこから出発した社会福祉とは、強者の弱者に対するおめぐみであり、所謂やってやるという慈善的官僚的福祉とならざるを得ないでしょう。」

私は、これを読みながら、水俣病問題に尽力した宇井純先生の「公害に第三者はいない。いるのは加害者と被害者だけだ」という鮮烈な言葉を思い出していた。
もし福祉を行なう者が、自身を被援助者の抱える抑圧とは無関係な善意の人、と捉えているのであれば、結局それは一方的な施しの福祉しか生まないであろう。公害、障害という問題の中で、自分自身をどう位置づけるかということから考えなければならないのである。公害は直接的にはチッソという一企業によってもたらされたが、その背景には、高度経済成長を望み、その恩恵を受けた世間という存在がある。障害者もまた、その生きづらさは健全者文明を生きる世間の抑圧によって生み出されている。CP者を「本来あってはならない存在」としているのは他ならぬ世間である。そして、その世間の一人こそが私自身なのだ。私は、公害の加害者であり、障害者にとっては抑圧者の一員なのである。

だからこそ、抑圧者である自分自身を自覚し、そこから、”他者とどのように共生していけばよいのか”という問題意識を育てねばならない。
共生とは苦しいものである。私は健全者にとって都合の良い社会を生きてきた。それは、障害者や高齢者といった生産能力の低いものを排除してきた社会である。もし障害者や高齢者とともに生きる社会を創ろうとするのであれば、社会の経済的生産性は低下することになる。健全者は快適な社会を崩し、身を切らねばならない。日々、看護の仕事をしていて感じるのは、病人とのあいだの摩擦である。「何度も同じことを言わせないでくれ」、「それくらい自分でやってくれ」。ここで起きているのは、健全者と病者のあいだの文化の衝突である。その衝突により、私は疲弊する。そして患者もまた疲弊しているだろう。しかし、真の意味での共生を目指すのであれば、この衝突は免れ得ないはずである。衝突のないところに、ストレスを感じないところに共生などは創造されないはずだ。自分が居心地の良いままに援助を行っているのだとしたら、それは自身の理屈が守られている範囲の中での援助でしかなく、結局はそれは健全者の理屈を押し付けているということになる。横田は『障害者殺しの思想』の中で、「障害者と健全者との関り合い、それは、絶えることのない日常的な闘争(ふれあい)によって、初めて前進することができるのではないだろうか。たくみな差別構造の利用によって分断化された「障害者」と「健全者」との間を止揚するためには、まず、「障害者」が自らの位置を確認する、つまり、現代資本主義の下にあっては、その疎外された肉体性によって「本来あってはならない存在」とされた位置を確かめ、逆にその位置を武器として「健全」な肉体を与えられたと思い込まされている「健全者」の社会への闘争(ふれあい)を働きかけることではあるまいか」と言っている。私はこれこそが福祉なのではないかと思っている。福祉とは、一方的な施しではなく、互いに異質な存在である者同士が、互いの共生の可能性を探り、ぶつかり合う、そしてその先に止揚として現れ出てくるものこそが福祉なのではないだろうか。

再び横田の著書から抜粋する。

生理に摂取と排泄がウラハラな様に、人類は一部の人間を”人間外”に排泄することによって、人間が人間らしく生きて来たのだ。

人間は排除することなしには生きられないのだろうか。
水俣病、ハンセン病、発達障害、知的障害、CP者、そしてナチスやポルポトによる虐殺、私が学んできただけでも壮絶な排除の歴史がある。そしてそれは、私の外にあるものではない。私の中にも誰かを排除し、自身の優越性を護ろうという本能がある。伊藤計劃の「虐殺器官」は、人間には誰しも虐殺の器官が備わっており、それが刺激により目覚めると、虐殺が行われるという世界を書いた。これは、決してSFの世界の中だけの話ではないだろう。私は、私自身の中に他者を排除しようとする排除の器官が備わっていることを感じる。どうすればその排除の器官と闘うことができるのか。

そのような問いに挑むための手段が、私にとっては看護であり、福祉である。

私は、看護を”人間的愛情の実践”として捉えている。

それは、その人を専門的眼差しから分断し評価するのではなく、その人によって生きられた経験そのものを感受し、 そのうえでその人の成長を支えるということである。


現在、看護による人間的愛情の実践は、看護者個人の生まれや育ちによるものが大きい。 
それは例えば、親に愛情をもって育てられることで、人を愛し、信頼する術を学んだ、ということである。

看護の才とは、生まれにより決まってしまう天賦の才であるのか。

科学により、看護が実践する人間的愛情が後天的に教育可能なものになれば、それは人間の可能性を大きく広げることになると私は思っている。

世間にはびこる差別、排除。
生産第一主義の中で、人間そのものの尊厳が喪われつつあるように思う。

だからこそ、それに抗うための手段として人間的愛情の教育が必要なのではないか。


また別の例をあげる。
親に虐待された子は、自分が親になったときに子を虐待することが多いと聞く。
これは、育ちのなかで、”虐待”という関りをインプットされてしまい、その枠から抜け出せなくなるからである。呪縛のように。しかし、ここで後天的に人間的愛情による関りが獲得可能であれば、親による埋め込まれた関り方から抜け出すための一助となるだろう。


しかし、看護を科学にすることは難解である。
なぜなら、看護において対象となるものは(果たして対象という表現自体適切であるのかどうか)、その人そのものであり、客観的な数量として評価可能なものではないからである。 
科学の主流は量的研究である。


看護が科学として確立されれば、人間的愛情は後天的に学習できるものになる。
努力によって、人にやさしくなることができる。 
私にはそれが大きな希望のように思える。 

一.われらは自らがCP者である事を自覚する
われらは、現代社会にあって「本来あってはならない存在」とされつつある自らの位置を認識し、そこに一切の運動の原点をかなければならないと信じ、且、行動する。


一.われらは強烈な自己主張を行なう
われらがCP者である事を自覚したとき、そこに起こるのは自らを守ろうとする意志である。われらは強烈な自己主張こそそれを成しうる唯一の路であると信じ、且、行動する。


一.われらは愛と正義を否定する
われらは愛と正義の持つエゴイズムを鋭く告発し、それを否定する事によって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の福祉であると信じ、且、行動する。


一.われらは問題解決の路を選ばない
われらは安易に問題の解決を図ろうとすることがいかに危険な妥協への出発であるか、身をもって知ってきた。われらは、次々と問題提起を行なうことのみ我等の行いうる運動であると信じ、且、行動する。



青い芝の会、行動綱領である。
差別され、時には母親や介助者によって「愛と正義」の名のもとに命すら奪われかねない障碍者の、生命時に関わるひりつくような焦燥感が伝わってくる。
我々医療者は、患者や障碍者の命に関わる存在であり、それは、命を守る者であると同時に、命を奪うこともできる者であることを意味する。
援助者ー障碍者関係においては、援助する側ー援助される側という一方通行の関係のみ成立しており、その関係は逆転しない。つまり、障碍者に対して援助者というのは、権力を行使することができる存在なのである。病棟においても、看護師である私は患者さんからすれば何かをお願いする相手である。「水枕お願い」、「トイレいきたいの」、「あれとってくれない?」、病棟で仕事をしている中で、「お願い」という言葉を聞くことがなんと多いことであろうか。

いかに看護師と患者が、心を許して通じ合っているように思えても、その関係性の根底に流れるのは、援助者ー被援助者という一方的な権力構造が敷かれた関係であることを、看護師は自覚しなければならないのではないか。患者を前にして、我々は強いのである。対等などはありえない。

そこで考えねばならないのが、我々看護師は「なぜ患者のケアをしなければならないのか」ということである。自らの役割を深め、胸に刻み仕事をしなければ、権力者である我々は患者の害となりかねないというリスクを持っている。不適切に権力が行使されることになる。
 
なぜ人は人をケアしなくてはならないのであろうか。
患者は、障碍者は、人の力を直接的に借りなければ生きていくことはできない弱者である。
「誰もが助け合って生きている」などという綺麗ごとは通用しない。患者や障碍者は、食事、排泄、睡眠などの生命活動の根幹の部分において人の助けを借りねば充足することができない存在であり、彼らにとって「助けが借りられない」ということは、その日一日の生命が危ぶまれかねないということを意味するのである。援助者もまた、彼らにケアを提供することで、所属の欲求や、自尊心、自己実現の欲求など、マズローの5段階欲求でいう高次の欲求を満たすことができるであろうが、「それがなくても死にはしない」という点において、患者や障碍者とは隔絶されている。

なぜ人は人をケアしなければならないのであろうか。
なぜ弱者を見殺しにしてはならないのか。
生産第一主義からすれば、高齢者や障碍者は「本来あってはならない存在」である。 
よく、年金負担の説明で、数人の若者が一人の高齢者を背負って苦しそうにしている絵が用いられるが、あれはまさに「高齢者は社会のお荷物です」ということであろう。

私は資本主義の真っただ中を生きてきた。
多くの人を蹴落とし、受験戦争に勝利した。
その私の中には、「私は努力した。できないやつは努力が足りない。」という自己責任論が強くすくっている。構造的暴力という学んだ今であるが、それでも心の根の中にはうえのような自己責任論が鎮座している。

私が看護を学ぶうえで第一の命題は、「どうケアをするか」ではなく、「なぜケアをしなければならないか」ということである。

平時であれば、義務と自尊の心から、にこやかにケアを提供することができる。
しかしこれが、災害や紛争など、自身の生命すら危ぶまれる緊急事態であればどうか。
果たして私はそのような状況下でも、身を切って弱者をケアすることはできるのかどうかと心に問うと、できそうもないということが素直な答えである。しかし同時に、人の命というのは切り棄ててよいものではないということ心のどこかで分かっている。災害や紛争が起これば、高齢者や障碍者などの弱者からまず死んでいくだろう。そのような悲劇を予期しているからこそ、「弱者を切り棄てない自身を育てたい 、このままではだめだ」という焦りがあるのである。 

ハンセン病、水俣病問題を切り口にして、病と差別というテーマに関心を持ち始めた。

そこで、そもそも差別とは 何なのかということを考えるために手に取った本である。

本書を読み驚いたことは、一口に差別と言っても、その層の多様さである。
私などは部落は単に部落で、部落とそうでない村、というように二項対立で考え得るものだと思っていた。しかし、どうやらそうではなく、部落の中でも何段階かに呼称を分け、さらなる差別化を図っているということだ。同様に、”賤民”の呼称もまた様々である。唱門、夙、番太、産所、鬼筋、隠亡、鉢屋、巫女筋、聖、木地屋、垣之内、イヅナ、山窩、茶筅、人形廻し、院内、山伏、陰陽師、遍路、ヘンド、ツウカルヒ、荒神盲、犬神持、オサキ狐、スイカズラ、トリツキ筋、牛蒡種、ササラ、ハイク、アルキ筋、インノコ、フゴ筋、テテ筋、ナマダンゴ筋、鉦打、ニシ者、ラク、非人、シャア、ハタ、エタ、サガリ、外道、八筋、口寄せ、稲荷下し、長吏、石屋、紺屋、蓑造り、家根屋、大工、肝煎り、猿神、鋳物師。
筆者も、「いろいろとあり、その起源、歴史となると、まだわからないことが多いというほかなかろう」と述べているが、この記述から、差別をする側がその明確な根拠を意識しておらずとも、差別意識のみが残存していくことがあるということがわかる。 それは民俗学的な言い方をするのならば、”穢れ”であるのかもしれない。けがらわしい、と感じる時、なぜけがらわりいのかなどといちいち頭で考えたりはしていないだろう。ただ、本能がけがらわしさを喚起し、身体を震えさせるのである。であるから、「差別されるからには何か端的に説明可能な理由があり、その理由さえ解決してしまえば、差別は解消される」というのはあまい考えだと言えるだろう。
ではなぜ、根拠を直観できない状態になってもなお、差別意識は人々の胸の内から雲散霧消せず、かえって深く、深くへと根を掘り進めてきたのであろうか。筆者に記述を読めば、それは差別構造を意図的に継続させる方向へと力が働き続けてきているからだと考えることができる。それが、以下の記述である。「被差別部落が経済的、物質的諸環境、条件を向上させ、通常の村と比肩して劣らぬように改善されたとしても、被差別部落がなくなることは期待できまい。つまり、部落差別は、政治的、経済的、あるいは体制的、制度的なものとして発生し、維持されてきたと同時に、もっと社会構造の深部の機能として作動してきたものと思う。と。まさにガルトゥンクの言う構造的暴力である。差別構造は、ただ漠然と自然発生的に生じてきたものではなく、あるものが、自らの利を確保するため、意図的に作り出したものだと捉えられよう。だから、「差別はダメ」と学校教育で伝えるだけでは、決して差別はなくならなないはずである。差別構造を創り出したものは、自らの利を確保するために差別を維持する方向へと必死に比重をかけ続けるのであり、それに対抗し、差別構造を解消するためには、身をとしての尽力が必要なのではないか。それが、水俣病患者たちの闘いであり、ハンセン病者たちの闘いであったのではなかろうか。


さて、私が差別について考える時、それは自分の外で起きている解決すべき社会的問題として考えてきた。つまり、自分を差別-被差別という枠から外して差別問題について思考を巡らせた。その枠組みを取り外し、自分の中の差別意識に目を傾けてみるとしょう。

差別したことはあるか。
大いにある。
例えば、地元の栃木県に帰り、中学の友人が強い栃木なまりで話しているのを耳にすると、痛々しさと嘲笑の気持ちが湧いてくる。これは、都会に出て洗練された(と思い込んでいる)自分と、田舎で身を沈めている友人たちの間に一線を引き、自己の優越性を確認したいがためであろう。
また、大学についてもそうだ。ふだんは大学など関係ない、などと平然とすましているが、学歴や職歴などで威張り散らしている人間を見ると、「お前はどこ大だよ、こっちは○大だぞ」と放言してやりたい気持ちになり、必死に心を静めるということがある。○大というのは、私にとって大いに心の平穏を与えてくれる権力機構であり、その柵の中にいると、自分が守られているかのような安心感をおぼえることがあるのだ。

差別されたことはあるか。
直接的に、これが差別されるということかと感じたことはない。
しかし、自分の中に自分自身を差別する眼差しを持ったことはある。セルフスティグマというものだろう。マザーテレサの施設に行ったとき、西洋の人々に囲まれることがあった。女性でさえ私より背が高く、大きな眼をしている。男は逞しく、女は美しかった。反対に、日本人である私のやせ細った身体、細い目に恥ずかしさを覚え、語学が不得手なこともあり、ついつい集団の輪から外れるように立っていた。私は、自分自身の存在に申し訳なさを感じていたのである。

差別と言うのが、世間の眼差しによって造成されてくるものであるのならば、世間の一員である私もまた、当然ながら差別の参加者である。差別問題に関心を持つのであれば、まずは自身が世間に向けるまなざし、そして向けられている眼差しに敏感にならねばならないであろう。


 

病棟で働いていて感じることだが、生きていることを苦痛に感じているおじいさん、おばあさんが何と多いことか。


「はやくおじいさんのところにいかせて欲しい。なんで私を置いて行っちゃったの。」
「生きててもいいことない。」
「どうしてこんな目に合わされなくちゃならないの。」


ふと患者さんと話す時間が生まれたとき、そのような嘆きを幾度となく耳にする。 
みな、戦争を乗り越え、今の日本を作ってきた方たちだ。
100年に近い、私には想像のつかないような長い時間を生きてきた。
その方たちが、人生の終わりを迎える間際になって、このような嘆きを口にするのだ。
そのような病棟に、そして社会に暮らしていることに強く違和感を覚える。


何が彼らに、そう嘆かせてしまうのだろうか。
もし彼らが地域や家庭の中で必要とされていれば、役割があれば、このように嘆くことはないのではないか。
病棟に行く前、訪問看護をしていた時に出会った患者さんには、幸せそうに見える人たちが多かったように思う。
それは、彼らが家庭に暮らしていたからではないか。家庭に暮らすことで、”おかあさん”、”おじいさん”といった役割を付与される。100歳に近いおばあさん、看護師の問いかけにもあまり反応せず、身体を動かすことも滅多にない。しかし、まだ小さいひ孫をベッドに並べると、細い腕でガラガラを振り、「○○ちゃん、○○ちゃん」と赤子を呼ぶのだ。その姿の何とみずみずしかったことか。


病棟でケアをしていて、患者さんに「生きているのが辛い」という言葉を言わせてしまうとき、私は私自身が患者さんに対して「貴方はもういらない、邪魔者」というメッセージを発していたのではないかとハッとする時がある。
患者さんが「生きているのが辛い」という言葉を口にするとき、それは単に病気の痛みが苦しくて「辛い」ということもあれば、人のお荷物になっているのが「辛い」、できることが削られて生き、自分の存在価値が喪われていくのが「辛い」という意味でもあるだろう。
そして、患者をお荷物にし、できることを奪ってしまっているのは、その患者の身近にいる家族かもしれないし、何より看護師、医師、介護士かもしれない。


だから、看護をしている以上は、患者さんと接することに私自身が意義を感じていなければならないのだと思う。あなたのことをケアするのが私の幸せ、あなたの話を聞くのが楽しい、そう思えるのならば、その時はケアされる患者さん自身も「面倒かけてごめんね」などと嘆くことはなくなるだろう。
でもそのような聖人君子のようなケアができるのだろうか。経済的な有用性を超えて、相手の存在そのものを尊いと思えるような心なしには、このようなケアはできないだろう。


『生きがいについて』の冒頭の文章。
「平穏無事なくらしにめぐまれている者にとっては思い浮かべることさえむつかしいかも知れないが、世の中には、毎朝目がさめるとその目ざめるということがおそろしくてたまらないひとがあちこちにいる。ああ今日もまた一日を生きて行かなければならないのだという考えに打ちのめされ、起き出す力も出て来ないひとたちである。耐えがたい苦しみや悲しみ、身の切られるような孤独とさびしさ、はてしもない虚無と倦怠。そうしたもののなかで、どうして生きて行かなければならないのだろうか、なんのために、と彼らはいくたびも自問せずにはいられない。たとえば治りにくい病気にかかっているひと、最愛の者をうしなったひと、自分のすべてを賭けた仕事や無理に挫折したひと、罪を犯した自分をもてあましているひと、ひとり人生の裏通りを歩いているようなひとなど。」

病棟で、「生きててもいいことない」と呟く老人たちは、まさにこの文章が伝えようとしている人々になるであろう。

このような人々に対して、看護は何ができるのか。
100年近い長い時間を生きてきた老人にとって、病棟で看護師と過ごす時間は一瞬である。
そして、豊かに絡み合った人間関係を生きてきた老人の人生にとって、病棟の看護師は突然の、些細な登場人物である。
その看護師が、病棟でどれだけ懇切丁寧にケアをし、わずかでも張り合いのある日々を過ごすお手伝いができたとしても、家に帰れば息子に邪険にされ、食事も十分には用意してもらえず、出かける場所や話す友人もいない生活が待っている老人もいるかもしれない。そのような鬱屈とした生活が待っているであろう人をケアするとき、私は「たとえ元気になっても、この人の行く先は・・・」と沈んだ気持ちになってしまう。

何を見据えてケアをすればいいのであろうか。

 

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