わたしが日夜仕事として携わっている福祉。
この福祉とは何であろうか。
わたしはどのような意識をもって病者と、障害者と関わっているのであろうか。
手近にあるウィキペディアの引用で恐縮だが、そこには以下のように書かれていた。
福祉(ふくし、英 Welfare)とは、「しあわせ」や「ゆたかさ」を意味する言葉であり、すべての市民に最低限の幸福と社会的援助を提供するという理念を指す。
”提供”という言葉を字義どおりに解釈するのならば、持つ者が持たざる者に施すということになるだろうか。
しかし、私はこの捉え方というものはいささか危険だと思っている。
なぜなら、持つ者が持たざる者に与える時、それが強者の理屈の押し付けになるのではないかと言う恐れがあるからだ。それは結局、善意の皮をかぶり、弱者を抑圧することに他ならない。青い芝の会の行動綱領には、「我らは、自らが脳性マヒ者であることを自覚する」とあるが、これを健全者の文脈に照らし合わせるのであれば、健全者もまた、「我らは、自らが健全者であることを自覚する」ということになろう。健全者として生きてきた私には、無意識のうちに健全者に都合の良いように物事を捉えるという癖が染みついているはずである。私がどれほど中立をうたっても、そして他者に寄り添おうとしても、私が健全者の理屈から飛び出すということはできないはずである。CP者である横塚が著した『母よ殺すな!』から抜粋する。
「人間とはエゴイスティックなもの、罪深いものだと思います。この自分自身のエゴを罪と認めることによって、次に「では自分自身として何をなすべきか」ということが出てくる筈です。お互いの連帯感というものはそこから出てくるのではないでしょうか。まして、我々障害者とそうでない人達との交わりとは?障害者福祉とは?ひいては人間社会のあり方とは?先ず自分が罪人であると認めるところから出発しなければならないと思います。その根底に自分の罪悪性を省みることがない限り、そこから出発した社会福祉とは、強者の弱者に対するおめぐみであり、所謂やってやるという慈善的官僚的福祉とならざるを得ないでしょう。」
私は、これを読みながら、水俣病問題に尽力した宇井純先生の「公害に第三者はいない。いるのは加害者と被害者だけだ」という鮮烈な言葉を思い出していた。
もし福祉を行なう者が、自身を被援助者の抱える抑圧とは無関係な善意の人、と捉えているのであれば、結局それは一方的な施しの福祉しか生まないであろう。公害、障害という問題の中で、自分自身をどう位置づけるかということから考えなければならないのである。公害は直接的にはチッソという一企業によってもたらされたが、その背景には、高度経済成長を望み、その恩恵を受けた世間という存在がある。障害者もまた、その生きづらさは健全者文明を生きる世間の抑圧によって生み出されている。CP者を「本来あってはならない存在」としているのは他ならぬ世間である。そして、その世間の一人こそが私自身なのだ。私は、公害の加害者であり、障害者にとっては抑圧者の一員なのである。
だからこそ、抑圧者である自分自身を自覚し、そこから、”他者とどのように共生していけばよいのか”という問題意識を育てねばならない。
共生とは苦しいものである。私は健全者にとって都合の良い社会を生きてきた。それは、障害者や高齢者といった生産能力の低いものを排除してきた社会である。もし障害者や高齢者とともに生きる社会を創ろうとするのであれば、社会の経済的生産性は低下することになる。健全者は快適な社会を崩し、身を切らねばならない。日々、看護の仕事をしていて感じるのは、病人とのあいだの摩擦である。「何度も同じことを言わせないでくれ」、「それくらい自分でやってくれ」。ここで起きているのは、健全者と病者のあいだの文化の衝突である。その衝突により、私は疲弊する。そして患者もまた疲弊しているだろう。しかし、真の意味での共生を目指すのであれば、この衝突は免れ得ないはずである。衝突のないところに、ストレスを感じないところに共生などは創造されないはずだ。自分が居心地の良いままに援助を行っているのだとしたら、それは自身の理屈が守られている範囲の中での援助でしかなく、結局はそれは健全者の理屈を押し付けているということになる。横田は『障害者殺しの思想』の中で、「障害者と健全者との関り合い、それは、絶えることのない日常的な闘争(ふれあい)によって、初めて前進することができるのではないだろうか。たくみな差別構造の利用によって分断化された「障害者」と「健全者」との間を止揚するためには、まず、「障害者」が自らの位置を確認する、つまり、現代資本主義の下にあっては、その疎外された肉体性によって「本来あってはならない存在」とされた位置を確かめ、逆にその位置を武器として「健全」な肉体を与えられたと思い込まされている「健全者」の社会への闘争(ふれあい)を働きかけることではあるまいか」と言っている。私はこれこそが福祉なのではないかと思っている。福祉とは、一方的な施しではなく、互いに異質な存在である者同士が、互いの共生の可能性を探り、ぶつかり合う、そしてその先に止揚として現れ出てくるものこそが福祉なのではないだろうか。
再び横田の著書から抜粋する。
生理に摂取と排泄がウラハラな様に、人類は一部の人間を”人間外”に排泄することによって、人間が人間らしく生きて来たのだ。
人間は排除することなしには生きられないのだろうか。
水俣病、ハンセン病、発達障害、知的障害、CP者、そしてナチスやポルポトによる虐殺、私が学んできただけでも壮絶な排除の歴史がある。そしてそれは、私の外にあるものではない。私の中にも誰かを排除し、自身の優越性を護ろうという本能がある。伊藤計劃の「虐殺器官」は、人間には誰しも虐殺の器官が備わっており、それが刺激により目覚めると、虐殺が行われるという世界を書いた。これは、決してSFの世界の中だけの話ではないだろう。私は、私自身の中に他者を排除しようとする排除の器官が備わっていることを感じる。どうすればその排除の器官と闘うことができるのか。
そのような問いに挑むための手段が、私にとっては看護であり、福祉である。
この福祉とは何であろうか。
わたしはどのような意識をもって病者と、障害者と関わっているのであろうか。
手近にあるウィキペディアの引用で恐縮だが、そこには以下のように書かれていた。
福祉(ふくし、英 Welfare)とは、「しあわせ」や「ゆたかさ」を意味する言葉であり、すべての市民に最低限の幸福と社会的援助を提供するという理念を指す。
”提供”という言葉を字義どおりに解釈するのならば、持つ者が持たざる者に施すということになるだろうか。
しかし、私はこの捉え方というものはいささか危険だと思っている。
なぜなら、持つ者が持たざる者に与える時、それが強者の理屈の押し付けになるのではないかと言う恐れがあるからだ。それは結局、善意の皮をかぶり、弱者を抑圧することに他ならない。青い芝の会の行動綱領には、「我らは、自らが脳性マヒ者であることを自覚する」とあるが、これを健全者の文脈に照らし合わせるのであれば、健全者もまた、「我らは、自らが健全者であることを自覚する」ということになろう。健全者として生きてきた私には、無意識のうちに健全者に都合の良いように物事を捉えるという癖が染みついているはずである。私がどれほど中立をうたっても、そして他者に寄り添おうとしても、私が健全者の理屈から飛び出すということはできないはずである。CP者である横塚が著した『母よ殺すな!』から抜粋する。
「人間とはエゴイスティックなもの、罪深いものだと思います。この自分自身のエゴを罪と認めることによって、次に「では自分自身として何をなすべきか」ということが出てくる筈です。お互いの連帯感というものはそこから出てくるのではないでしょうか。まして、我々障害者とそうでない人達との交わりとは?障害者福祉とは?ひいては人間社会のあり方とは?先ず自分が罪人であると認めるところから出発しなければならないと思います。その根底に自分の罪悪性を省みることがない限り、そこから出発した社会福祉とは、強者の弱者に対するおめぐみであり、所謂やってやるという慈善的官僚的福祉とならざるを得ないでしょう。」
私は、これを読みながら、水俣病問題に尽力した宇井純先生の「公害に第三者はいない。いるのは加害者と被害者だけだ」という鮮烈な言葉を思い出していた。
もし福祉を行なう者が、自身を被援助者の抱える抑圧とは無関係な善意の人、と捉えているのであれば、結局それは一方的な施しの福祉しか生まないであろう。公害、障害という問題の中で、自分自身をどう位置づけるかということから考えなければならないのである。公害は直接的にはチッソという一企業によってもたらされたが、その背景には、高度経済成長を望み、その恩恵を受けた世間という存在がある。障害者もまた、その生きづらさは健全者文明を生きる世間の抑圧によって生み出されている。CP者を「本来あってはならない存在」としているのは他ならぬ世間である。そして、その世間の一人こそが私自身なのだ。私は、公害の加害者であり、障害者にとっては抑圧者の一員なのである。
だからこそ、抑圧者である自分自身を自覚し、そこから、”他者とどのように共生していけばよいのか”という問題意識を育てねばならない。
共生とは苦しいものである。私は健全者にとって都合の良い社会を生きてきた。それは、障害者や高齢者といった生産能力の低いものを排除してきた社会である。もし障害者や高齢者とともに生きる社会を創ろうとするのであれば、社会の経済的生産性は低下することになる。健全者は快適な社会を崩し、身を切らねばならない。日々、看護の仕事をしていて感じるのは、病人とのあいだの摩擦である。「何度も同じことを言わせないでくれ」、「それくらい自分でやってくれ」。ここで起きているのは、健全者と病者のあいだの文化の衝突である。その衝突により、私は疲弊する。そして患者もまた疲弊しているだろう。しかし、真の意味での共生を目指すのであれば、この衝突は免れ得ないはずである。衝突のないところに、ストレスを感じないところに共生などは創造されないはずだ。自分が居心地の良いままに援助を行っているのだとしたら、それは自身の理屈が守られている範囲の中での援助でしかなく、結局はそれは健全者の理屈を押し付けているということになる。横田は『障害者殺しの思想』の中で、「障害者と健全者との関り合い、それは、絶えることのない日常的な闘争(ふれあい)によって、初めて前進することができるのではないだろうか。たくみな差別構造の利用によって分断化された「障害者」と「健全者」との間を止揚するためには、まず、「障害者」が自らの位置を確認する、つまり、現代資本主義の下にあっては、その疎外された肉体性によって「本来あってはならない存在」とされた位置を確かめ、逆にその位置を武器として「健全」な肉体を与えられたと思い込まされている「健全者」の社会への闘争(ふれあい)を働きかけることではあるまいか」と言っている。私はこれこそが福祉なのではないかと思っている。福祉とは、一方的な施しではなく、互いに異質な存在である者同士が、互いの共生の可能性を探り、ぶつかり合う、そしてその先に止揚として現れ出てくるものこそが福祉なのではないだろうか。
再び横田の著書から抜粋する。
生理に摂取と排泄がウラハラな様に、人類は一部の人間を”人間外”に排泄することによって、人間が人間らしく生きて来たのだ。
人間は排除することなしには生きられないのだろうか。
水俣病、ハンセン病、発達障害、知的障害、CP者、そしてナチスやポルポトによる虐殺、私が学んできただけでも壮絶な排除の歴史がある。そしてそれは、私の外にあるものではない。私の中にも誰かを排除し、自身の優越性を護ろうという本能がある。伊藤計劃の「虐殺器官」は、人間には誰しも虐殺の器官が備わっており、それが刺激により目覚めると、虐殺が行われるという世界を書いた。これは、決してSFの世界の中だけの話ではないだろう。私は、私自身の中に他者を排除しようとする排除の器官が備わっていることを感じる。どうすればその排除の器官と闘うことができるのか。
そのような問いに挑むための手段が、私にとっては看護であり、福祉である。