冬の浅間山、昨日積もったばかりの雪を踏み鳴らし、登った。
登りつつ浮かんでくるのは、『永遠の仔』のとあるシーン。
親から虐待を受けている優希、ジラフ、モウルは西日本最大の霊峰を登る。
その先に、救いがあることを信じて。
この小説の主人公たちは、幼いころに親に虐待され、生きることを無条件に肯定してもらえなかったという過去を持つ。
大人になり、社会人として働き始めてもなお、「自分は生きていて良いのか。」という問いを抱き続ける。ただ、誰かに讃えてもらえる日々を渇望し続ける。
そこで、病院に入院しているおじいちゃん、おばあちゃんを想う。
口から食事が摂れなくなり、徐々に身体はむくみ、声は枯れて聞き取れなくなっていく。
「できること」が日ごとに喪われていくのである。
それはつまり、自尊心もまた日ごとに喪われていく危険性があるということを意味する。
だからこそ、看護師は看護をするのではないだろうか。
看護とは、本人の機能が損なわれたときに、本人に代わって食事を食べさせ、身体を拭き、オムツを代え、そして可能な限り本人の意思を汲み取り、代弁していくということである。
細々としたそれぞれの看護に埋没し、見失ってしまうそうになるが、私がやるべきことは、それらの看護を介して、患者本人の尊厳を護るということなのではないだろうか。
「できること」が日ごとに喪われていくということは、自らの価値が喪われていくことに繋がる。
自己の価値の喪失。
それは、患者自身が心のうちから感じることであろうし、また、病気になって「できること」が減り、周囲の人々の見せる顔が寂しいものに変わっていったということからも感じうるものであろう。
だからこそ、看護師としては、本人の「できる」、「できない」に関わらず、ただその人がそこにいるという理由だけによって、「あなたは生きているだけで意味があるんだよ」ということを伝えなくてはならないはずである。
役に立つ、立たない、金を稼ぐ、稼がない、肩書がある、ない、そういった俗世の関心を超越して、ただ存在そのもののために、その人の価値を認めるように努めなくてはならないはずである。
しかしこれは、言うは容易いが、行うは難しである。
業務に追われ、急変した患者さんがいる中で、認知症患者さんから頻回にうーごセンサーがなれば、その人の存在を一時でも疎ましく感じてしまうことがある。
体重が100kgもある患者さんから、「おむつを替えて」と何度も言われれば、ため息もつきたくなる。「少しは汚れたままで我慢してくれよ」とも思ってしまうことがある。
認知症で暴力や暴言がある患者さん、体位交換をしようとすればナースコールを掴んで殴られたり、噛みつかれそうになったりすることがあり、「あの人のとこには行きたくない」とも思う。
聖人君子ではないのだから、そのような疎ましさをおしてまで、「あなたは生きているだけで意味がある」と思えるだけの強さは今の私にはない。
どのような工夫が、相手を大切にできることに繋がるのか。
気づいたことを箇条書きにする。
・患者さんの家での生活の様子を知る。家族とどのように関わり、どんなものを食べ、どのように余暇を過ごしていたのか。
・患者さんの過去を知る。どこで育ち、どのような仕事をし、どのようにして今の家族を築いてきたのか。
・患者さんと患者対看護師、ではなく人間対人間として会話する時間を持つ。「お加減はどうですか?」ではなく、「今日は寒いですよ」や、自分の経歴や気持ちを話したり。
このような工夫は、人間として相手と関係するためのものなのだと思う。
人間として相手を知れば知るほど、生々しく相手の人間存在が私の中に立ち上がってきて、そうなれば決して相手を蔑ろにするということはできなくなるはずだ。
登りつつ浮かんでくるのは、『永遠の仔』のとあるシーン。
親から虐待を受けている優希、ジラフ、モウルは西日本最大の霊峰を登る。
その先に、救いがあることを信じて。
この小説の主人公たちは、幼いころに親に虐待され、生きることを無条件に肯定してもらえなかったという過去を持つ。
大人になり、社会人として働き始めてもなお、「自分は生きていて良いのか。」という問いを抱き続ける。ただ、誰かに讃えてもらえる日々を渇望し続ける。
そこで、病院に入院しているおじいちゃん、おばあちゃんを想う。
口から食事が摂れなくなり、徐々に身体はむくみ、声は枯れて聞き取れなくなっていく。
「できること」が日ごとに喪われていくのである。
それはつまり、自尊心もまた日ごとに喪われていく危険性があるということを意味する。
だからこそ、看護師は看護をするのではないだろうか。
看護とは、本人の機能が損なわれたときに、本人に代わって食事を食べさせ、身体を拭き、オムツを代え、そして可能な限り本人の意思を汲み取り、代弁していくということである。
細々としたそれぞれの看護に埋没し、見失ってしまうそうになるが、私がやるべきことは、それらの看護を介して、患者本人の尊厳を護るということなのではないだろうか。
「できること」が日ごとに喪われていくということは、自らの価値が喪われていくことに繋がる。
自己の価値の喪失。
それは、患者自身が心のうちから感じることであろうし、また、病気になって「できること」が減り、周囲の人々の見せる顔が寂しいものに変わっていったということからも感じうるものであろう。
だからこそ、看護師としては、本人の「できる」、「できない」に関わらず、ただその人がそこにいるという理由だけによって、「あなたは生きているだけで意味があるんだよ」ということを伝えなくてはならないはずである。
役に立つ、立たない、金を稼ぐ、稼がない、肩書がある、ない、そういった俗世の関心を超越して、ただ存在そのもののために、その人の価値を認めるように努めなくてはならないはずである。
しかしこれは、言うは容易いが、行うは難しである。
業務に追われ、急変した患者さんがいる中で、認知症患者さんから頻回にうーごセンサーがなれば、その人の存在を一時でも疎ましく感じてしまうことがある。
体重が100kgもある患者さんから、「おむつを替えて」と何度も言われれば、ため息もつきたくなる。「少しは汚れたままで我慢してくれよ」とも思ってしまうことがある。
認知症で暴力や暴言がある患者さん、体位交換をしようとすればナースコールを掴んで殴られたり、噛みつかれそうになったりすることがあり、「あの人のとこには行きたくない」とも思う。
聖人君子ではないのだから、そのような疎ましさをおしてまで、「あなたは生きているだけで意味がある」と思えるだけの強さは今の私にはない。
どのような工夫が、相手を大切にできることに繋がるのか。
気づいたことを箇条書きにする。
・患者さんの家での生活の様子を知る。家族とどのように関わり、どんなものを食べ、どのように余暇を過ごしていたのか。
・患者さんの過去を知る。どこで育ち、どのような仕事をし、どのようにして今の家族を築いてきたのか。
・患者さんと患者対看護師、ではなく人間対人間として会話する時間を持つ。「お加減はどうですか?」ではなく、「今日は寒いですよ」や、自分の経歴や気持ちを話したり。
このような工夫は、人間として相手と関係するためのものなのだと思う。
人間として相手を知れば知るほど、生々しく相手の人間存在が私の中に立ち上がってきて、そうなれば決して相手を蔑ろにするということはできなくなるはずだ。