夜間飛行

2017年03月

冬の浅間山、昨日積もったばかりの雪を踏み鳴らし、登った。


登りつつ浮かんでくるのは、『永遠の仔』のとあるシーン。
親から虐待を受けている優希、ジラフ、モウルは西日本最大の霊峰を登る。
その先に、救いがあることを信じて。


この小説の主人公たちは、幼いころに親に虐待され、生きることを無条件に肯定してもらえなかったという過去を持つ。
大人になり、社会人として働き始めてもなお、「自分は生きていて良いのか。」という問いを抱き続ける。ただ、誰かに讃えてもらえる日々を渇望し続ける。


 そこで、病院に入院しているおじいちゃん、おばあちゃんを想う。
口から食事が摂れなくなり、徐々に身体はむくみ、声は枯れて聞き取れなくなっていく。
「できること」が日ごとに喪われていくのである。
それはつまり、自尊心もまた日ごとに喪われていく危険性があるということを意味する。
 
だからこそ、看護師は看護をするのではないだろうか。
看護とは、本人の機能が損なわれたときに、本人に代わって食事を食べさせ、身体を拭き、オムツを代え、そして可能な限り本人の意思を汲み取り、代弁していくということである。
細々としたそれぞれの看護に埋没し、見失ってしまうそうになるが、私がやるべきことは、それらの看護を介して、患者本人の尊厳を護るということなのではないだろうか。

「できること」が日ごとに喪われていくということは、自らの価値が喪われていくことに繋がる。
自己の価値の喪失。
それは、患者自身が心のうちから感じることであろうし、また、病気になって「できること」が減り、周囲の人々の見せる顔が寂しいものに変わっていったということからも感じうるものであろう。

だからこそ、看護師としては、本人の「できる」、「できない」に関わらず、ただその人がそこにいるという理由だけによって、「あなたは生きているだけで意味があるんだよ」ということを伝えなくてはならないはずである。
役に立つ、立たない、金を稼ぐ、稼がない、肩書がある、ない、そういった俗世の関心を超越して、ただ存在そのもののために、その人の価値を認めるように努めなくてはならないはずである。

しかしこれは、言うは容易いが、行うは難しである。
業務に追われ、急変した患者さんがいる中で、認知症患者さんから頻回にうーごセンサーがなれば、その人の存在を一時でも疎ましく感じてしまうことがある。
体重が100kgもある患者さんから、「おむつを替えて」と何度も言われれば、ため息もつきたくなる。「少しは汚れたままで我慢してくれよ」とも思ってしまうことがある。
認知症で暴力や暴言がある患者さん、体位交換をしようとすればナースコールを掴んで殴られたり、噛みつかれそうになったりすることがあり、「あの人のとこには行きたくない」とも思う。

聖人君子ではないのだから、そのような疎ましさをおしてまで、「あなたは生きているだけで意味がある」と思えるだけの強さは今の私にはない。

どのような工夫が、相手を大切にできることに繋がるのか。
気づいたことを箇条書きにする。

・患者さんの家での生活の様子を知る。家族とどのように関わり、どんなものを食べ、どのように余暇を過ごしていたのか。

・患者さんの過去を知る。どこで育ち、どのような仕事をし、どのようにして今の家族を築いてきたのか。

・患者さんと患者対看護師、ではなく人間対人間として会話する時間を持つ。「お加減はどうですか?」ではなく、「今日は寒いですよ」や、自分の経歴や気持ちを話したり。


このような工夫は、人間として相手と関係するためのものなのだと思う。
人間として相手を知れば知るほど、生々しく相手の人間存在が私の中に立ち上がってきて、そうなれば決して相手を蔑ろにするということはできなくなるはずだ。 

TSUTAYAに行くと、DVDが販売してるのを見つけた。

おもむろに購入。

思えば、新品のDVDを買うというのはこれが人生で初めてだ。
この先何度も観たいし、何なら子供ができたら観せてあげたい、という気持ちがあったからだろうか。
この映画を観ていると、「霞が関で働いている友人たちはこんな仕事を日々しているのか」という気持ちが湧いてきて親近感を覚えるが、それがDVDを買う一番の原動力になったように思える。

政府関係者特有の、事実を淡々と述べるスピーディな会話はテンポよく、聞いていて気持ちが良かった。


さて、内容について。
住民の避難のシーンで、「入院中の患者さんはどうするのだろう。病院は修羅場だろうな」という感想がこぼれる。
医療機器を外せない急性期の患者さんはあのような混乱下では搬送不可能だろうし、認知症や精神障害を持つ患者さんを医療者が手を引いて一人一人搬送するのも難しいだろう。ストレッチャーに縛り付けて搬送するにしても、それだけのマンパワーを確保できるのか。
認知症の進行した患者さんの中には、易怒的になり、トイレに移ってもらおうとするだけでも、スタッフを殴り、蹴り、数人がかりでようやくトイレに移せるという方もいらっしゃる。女性患者ならまだいいが、男性患者となると、高齢といえども体格は良く、殴られれば青あざができることもある。
以前働いていた知的障碍者のケアホームでも、先輩スタッフは冗談交じりに、「あまり大声では言えないけれど、もし地震が起きたら、誰を連れて逃げるか心の中で決めておいた方がいいよ。一人か二人の手を引いていくのが限界だから、誰かは見捨てなくてはいけないからね。」と言っていた。

このようにマンパワーが必要となる災害時の患者避難活動だ。
その避難活動を主体的に行うのは、病院に勤務する職員になるのだろうが、果たして職員には避難活動に参加する義務というものはあるのだろうか。職員自身も被災者であり、護らねばならぬ家族がいるだろう。避難活動に参加するということは、自身の避難が遅れるということであり、それは被災するリスクが上昇するということを意味する。”命を賭けて”という状況にもなりうるだろう。そういった性質を持つ以上、医療者に患者避難活動に参加する義務はないはずである。自分や家族の身を危険にさらしてまで、見知らぬ他人である患者の避難に手を貸すことは求められないはずだ。

それをするのが、赤十字だったり、DMATだったりするのだろう。
それらの組織の団員は、参加している時点で”被災者のために、自分の安全はある程度は省みずに救援活動に参加します”という前提をもって参加してきているだろう。

私自身、新人看護師として働いていた時の指導者さんがDMATであり、先輩からは災害時医療支援について多くを教えてもらった。忘れないよう、それらを箇条書きにしておく。


◆災害支援に参加するうえで最も大切な資質は、技術や知識よりも人間性。DMATとして災害支援に参加すると、被災地の病院で見ず知らずのスタッフの中に入って働くことになる。彼らは医療者であると同時に、被災者でもあり、こちらの思いもよらぬ立ち振る舞いが彼らの心の琴線に触れることになる。DMATとして働くためには、そういったデリケートな環境でもチームの一員として働かせてもらえるだけの人間性が必要だ。


◆何が起こるか分からない。いつ緊急事態が起きても動けるようにするため、普段から仕事は可能な限り迅速に行って、時間的な余裕を確保しておく。


◆普段の仕事から、色んな事に挑戦して、リスクに触れておく。そうすることで、その環境下でのリスクの扱い方がわかってくる。失敗は失敗じゃなくて、リスクの扱い方を学んでるんだって思ってほしい。


先輩は、普段の仕事でも自分にどんどん負荷をかけていた。
他の看護師が助手やフリーに任せる仕事でも自分でやろうとしたし、看護記録も詳細に書こうとしていた。常に笑顔で、場を和ませようともしていた。大いにすべってもいたが。
それは、”それくらい”こなせないと、災害支援の現場では役に立たないということが分かっていたからだろう。

ぼくはいつか国境なき医師団に参加したい。
そのためにも心を強くしていかなくてはならない。
人をケアするためには、自分の心と身体がよくよく整っていなくてはならない。だから、地震でビルがぶっ壊れていても、外でマシンガンやミサイルがぶっ放されていても、患者とチームの前では自然と笑顔が出せるくらい、強くなりたい。

 

 国境なき医師団に参加するうえで、国連や国際NGO、ODAというものの実際を知りたいと思い、手に取った本である。


 伊勢崎氏の本は『本当の戦争の話をしよう』を以前読んだことがあったが、様々な紛争地で生命のリスクを背負い、武装解除を担ってきた氏の語りには実質を感じた。

 
 まず、国際ボランティアに関しての項から読んでいった。
JICAは教育機関、人材交流機関であり、援助効果を上げるための機関ではないということ。
そして、給与が出る以上はJICAはボランティア機関ではないと言い切る。
ボランティアと聞くと、「善意の人々」というイメージがあり、自己の甘さがあると、そこから「善意なで来てやっているのだから、文句を言うな、やってやってるだけいいと思え」という慢心に繋がる。ボランティアに参加する際には、徹底した援助効果主義を自分に強く言い聞かせねばならないだろう。
そして、国連ボランティアについて。
国連ボランティアの給与は20万ほどだが(東ティモールのPKOにて)、これを求めて発展途上国から優秀な文民ボランティアがやってくる。伊勢崎氏の語りでは、極めて老練の猛者たちが集まってくるということであった。彼らは国連ボランティアから、国連正規要員に昇格することを切に狙っている。日本のように、外務省が国連正規要員の枠組みを作ってくれるようなぬるま湯とはわけが違うらしい。(JPO制度)
私の出身の大学は、何かと国家からの援助や知人の縁故を受けやすい大学であったが、そういったものに頼り切っていては、上記のような猛者たちと肩を並べて仕事をすることは難しいだろう。プロフェッショナルとしての自分を成長させるために、そのような甘えに頼らず、厳しい道を選んでいかなくてはならないと感じた。


 次にNGOについての項。
伊勢崎氏は、国際NGOの特徴として、ドナーと被援助者の距離が遠いということをあげ、そこから成果が過度に美化されて宣伝される、というリスクがあると述べる。要は、相手は現実を知らないから、こちらの都合の良いようにどうとでも言える、ということだ。


 読んでいて思ったのだが、国際関係というのは様々な思惑があって、その実質を捉えきることが大変難しい。政府VS反政府とだけあっても、実際にはそこに他国の利害が絡んでくるし、国内にも多様な武装勢力、政治団体が存在することだろう。
国境なき医師団は、そのような海千山千の者たちの思惑めぐる渦中に飛び込み、”中立”な人道的支援を提供することを目ざしているが、”中立”とは何なのか。例えば、政府軍と反政府軍が紛争を繰り広げている場所で、その双方の負傷者を分け隔てなく治療するということが中立なのだろうか。そして、それが中立なのだとしたら、如何なるバランス感覚と、調整能力を持てば、その中立の実現が可能なのだろうか。
 


最期に、印象深い記述をまとめる。
「彼らが発展途上国を援助するのは、途上国を搾取することによって産業革命を推し進め、グローバル経済の屋台骨を作って来た歴史の裏返しとも言えます。途上国の資源や労働力をあまりに収奪しすぎると、不満を持つ人間が反乱を起こし、経済システム自体が崩壊する。だからそれが爆発しない程度に少しずつ対処する。要するに欧米社会は、途上国の人々を搾取するかわりに、彼らがヤケを起こさないように、セーフティネットを作らなくてはいけないということを経験的に学んできたわけです。したがって、欧米による途上国の援助とは、底辺の人たちが死なない程度のセーフティネットを提供することにほかなりません。その意味で、国際協力とは、いわば世界経済システムを維持するためのスキマ産業なのです。」(16p)




 

夜勤が明けた。
誰も死なず、急変もなく、入院もない、平和な夜だった。


「ハンドルがぶれたら死ぬな」というくらいのスピードで高速を走り、阿智村に向かう。
大学来の友人と、阿智の温泉郷で1年ぶりに再会することになっていた。


再会し、車に。
不思議なもので、大学で初めて会った時には、子供のようなものだったのに、今では友人は結婚し、
僕は車の運転をしている。


仕事の話、将来の話、と様々に話す。
次に会うのは30年後か、と本気か冗談か分からぬことを言い、分かれた。
元気でやっていてほしい。



その後は、夕方の床屋の時間まで余裕があったので、飯田市を散策する。
村上春樹の「騎士団長殺し」を読んでから、絵画への関心が生まれ、この日も飯田市美術博物館を訪れた。

博物館というものは数年ぶりに訪ねた気がするが、こんなにも面白かったか。
特に、恐竜の等身大モデル。
とてつもなく大きい。
こんな生き物が本当に地を歩いていたとは信じがたい。

開催していた菱田春草の展示。
近代日本画の重要人物の一人で、従来の日本画には欠かせなかった輪郭線を廃した無線描法を用い、朦朧体とも揶揄された手法を確立させた。




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美術館を出て、周りを歩いていると、なんと柳田国男館なるものが。
なぜこんなところに、と思ったが、柳田は民俗学のフィールドワークとして伊那に7回ほど足を運んだと書かれている。

柳田に触れたことで、大学院の選択に迷いが生じた。
公衆衛生を選んだのには、職に繋がりやすいからという実益的なところも多分にあるが、しかし、自分の肌に合わないのでは、という懸念もある。くっきりとメスを入れていくようなスタイルは、少し疲れそうだ。
文化人類学に進みたい気持ちはあるが、実益を考えると、多少および腰になってしまう。
国境なき医師団に直結するだろうか、国内に仕事はあるだろうか。

いつからこんな貧弱な考え方をするようになってしまったのだろうか。
大人になったということなのだろうか。
来年度の進学を目指すのであれば、そろそろ院試の準備をせねばならず、迷っていられる時間は長くないだろう。



それにしても、飯田市はおばあちゃんの家を感じさせる風景があちこちにあり、良い街であった。
偶然見つけた小学校、自分の通っていたものとはまるで違う造りだが、校庭を見ていると、小学校時代を懐かしく思う気持ちが湧いてきた。野球や、臨海学校や森林学校。小さい時にはただ楽しいとだけ感じていた経験が、今の自分の一部を形作っていることに気づく。




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